ヤマノススメとweb系 感情が感情の顔をして歩く

ヤマノススメ サードシーズン』を観てこの何とも言えない感じを文章にしようと思った際に、作画に触れないわけにはいかないんじゃないかという気になり、蛮勇をふるって書いた記事の下書きにあたるものです(内容に違いがあるわけではなくアウトライナーで書いたものをそのまま貼り付けたという意味の下書きです)。某誌に本来のレビュー企画の+αとして投稿したものなんですが、どうも上手く書ききれてないという感じなので、さらにブログで寝かせる(できればコメントをもらう)ことにしました。たぶん大丈夫だけど、怒られたら消します。

 

  •  ヤマノススメを観ているとき
    • ヤマノススメ サードシーズン』が2018年のアニメ演出の転換点を代表するアニメであることは間違いない。今までのどのアニメとも違い、感情が感情の顔をして歩いていた。ヤマノススメを観ていて、いったい自分が何に向かっているのかわからなくなったことはないだろうか。この奇妙な質感にこそ、ヤマノススメを他のあらゆるアニメの連なりから区分する理由がある。
  • web系作画
    • たとえば、『ヤマノススメ』を2000年以降のweb系作画が「動きの感じ」という関心をキャラクターの「顔」へ適応させることに成功したアニメだと表現できるかもしれない。
    • web系とは、第一義的には、web上で注目を集め、制作に直接声をかけられるなどして原画としてデビューした、沓名健一、りょーちも山下清悟に代表される2000年以降のアニメーターを指す言葉であるり、下積みを経験していないからこその、日本のテレビアニメの作画が培ってきたテンプレートを外れた、生の動きが先行する作画という特徴が指摘できる。
    • いうなればweb系アニメーター達は、テンプレートとなった動きがキャラクターの行動・動機を示すための記号となることを否定し、静止画を固定化された時間(フル3コマ)へ流し込むアニメーションに拘ることで、動きの生の感じを表現することを何より優先してきた(web系とフル3コマによるタイムライン作画に関してはブログ「C is for Comic」のエントリー「ざわめきを作画する」に詳しい)。
  • web系作画への言及(ちな)
    • こうしたweb系作画の文脈に、『ヤマノススメサードシーズン』を代表するアニメーターちな(#2,#10の絵コンテ・演出、#2一人原画)自身が言及している。
    • 「(web系アニメーターのスタイルを踏まえた土上いつきは)テンプレートの技法をそのまま使って見た目さえ整えばいいという考えで書くのではなく、その表現が本当に熱く感じるか、煙たく感じるかという「感じ方」を優先した意識で書いていると思いますし、同様に僕がキャラクターの芝居を書く時もそうしたアニメーション感を大事にしています。」(MdN vol.294)
  • web系作画とヤマノススメ
    • では実際に、ヤマノススメでは、web系の関心がどのように継承されていたと指摘できるだろうか。
    • そもそも、web系はキャラクターと離れたところで独自のアニメを打ち立てたという点に特徴があったはずである。キャラクター中心の(それに派手なアクションもない)ヤマノススメにおいて、どのように「そうしたアニメーション感を大事に」したのだろうか。
    • 結論から言えば、表情作画における感情表現の新規性という形でその矛盾が昇華したというのがここでの仮説である。それは現状の「日常アニメ」への抵抗としても読めるかもしれない。
    • 作画崩壊」という言葉が独り歩きする風潮のなか、キャラ表を作りこみ、作監総作監による細かい修正で、どの位置で一時停止したとしてもキャラクターの顔が崩れていない、アウトラインが固定された隙のないアニメが多くなってきた。こうしたアニメにおいて、動きとは固定化されたキャラクターの顔に記号的に与えられるテンプレートとなる。それゆえに、キャラクターの感情は解釈され言語化されたうえで表情として固定化され、それを視聴者が再び感情として読み取るという過程をたどる。
    • これに対して、ヤマノススメではキャラクターの顔が比較的自由に変形する。一時停止をすると決して整っているとはいえない顔が描かれているシーンが多いことに気付くだろう(例えば松本憲生の一人原画回である#3などが特徴的かもしれない)。だが、それは決して動画としてみている限りでは違和感を覚えるものではない。
    • 先のweb系の議論と並べるとわかりやすい。つまり、動的な表情がキャラクターの顔に先立って作画されているのだ。web系が、固定された体にテンプレートの動きを当てはめるのを拒否したというプロセスが、そのまま固定されたキャラクターの顔にテンプレートの表情を当てはめるのを拒否するという形で踏襲されている。
    • だからこそ、感情が表情テンプレートへエンコードされ、視聴者がそれを経験に基づきデコードするという過程を必要としない。ちなの言葉を借りるならば「生の」表情=感情がそこに立ち現れる。
  • #10演出の革新性(ひなた)
    • 具体的な例をみよう。サードシーズンのなかで最も印象深かったのはやはり#10だろう。あおいがクラスメイトと池袋へ遊びに行くなか、物語の中心ははひとりで飯能を歩くひなたである。「いつも一緒にいる必要はない」。そう思いながらも、いままで引っ込み思案で自分がいなければクラスの友達とも遊ぶことができなかったあおいが、ひとりで遊びに行っているという事実に戸惑いを隠せず、何より戸惑っているという事実そのものに言いようのない感情を抱えている。
    • 重要なのは、この感情をひなたが言語化できていないということである。こうした感情を、たとえば楽しそうなあおいをメインでとらえながら、孤独を強調するようにひなたの様子をワンカットだけ挿入するという演出であれば、今までのアニメでも十分あり得ただろう。しかし、#10のカメラは曖昧な感情を抱えながら歩くひなたを追い続ける。それは、言語化できないがゆえにテンプレートでは捉えきれない、ひなたのざわめく表情・感情を作画で描き切ることを前提とした演出だった。あおいからのメッセージを受け取ったとき、楽しそうな写真を見たとき、木の写真を撮るとき、楓とゆうかの関係性を目前にしたとき、駅であおい達の姿を目撃したとき…ひなたの顔は変化し続ける。この顔の変化は、ともすればキャラクターの同一性を失う契機となりかねない。しかし、主役はひなたというラベルに固定化されたキャラクターではないのだ。動的なひなたの感情そのものを画面の主役にしたという点に#10の面白さがあった。
  • 「秘密だよ」
    • テンプレートの組み合わせでは表現できない、非言語的な生の表情・感情というモチーフは、サードシーズ最後の物語とも深くリンクする。「私ひなたのこと全然知らないなと思って…」。このあおいの台詞は、1期1話で視聴者が受け取った闊達なひなたと内気なあおいという構図が崩壊した3期最終話における台詞である。もちろん、ここまでに二人の関係は入り組んできたのだが、ここに至ってどんなテンプレートも適応不可能であることにあおい自身が言及したシーンである。
    • ヤマノススメは定型化されたキャラクターの提示から始まりながらも、キャラクターに先立って生の感情を作画する、感情が感情のまま歩くアニメだった。そして、それが生の感情であるがゆえに、われわれ視聴者はその言語的な解釈を徹底的に拒否されるのである。最終話における、彼女たちの秘められた会話はその象徴といえよう。