スタプリ#1とプリアラ#2(宮元宏彰)

今日からスター☆トゥインクルプリキュアの放送が始まりました。

「恐怖は思考を停止する」と叫ぶ悪役に、ペンとノートをもって想像力で挑むプリキュア…これからがすごく楽しみ。

未見の方はこちらで⇒

スター☆トゥインクルプリキュア|民放公式テレビポータル「TVer(ティーバー)」

 

そこで、シリーズディレクターかつ#1の演出である宮元宏彰に着目しながら#1を振り返ってみたいと思う。同じく宮元宏彰演出のプリアラ#2と合わせて特徴的なシーンを抜き出してみた。

(こういうブログは何もわかってないのにわかった風に書いてしまうから、あとで大変つらい思いをすることになるのですが、まぁとりあえずプリアラ#2は面白いし、とにかくスタプリが楽しみというのが伝わればと…)

 

 ・アバン

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最も印象的だったのがアバン、星奈ひかる(主人公)とフワ(妖精)が出会う一連のカット。天体望遠鏡で星をみていたところ、ノートに書いたオリジナルの星座が輝き、そこから妖精が出てくるシーン。

暗い部屋のなかに光源が現れ、何かが出てくる非現実的なわくわく感を、カメラの瞳への寄りで表現する。しかし次の瞬間、顔がぶつかると、目は(漫画的)くの字となり、カメラは引き、コミカルな痛みとともに現実へと引き戻される。溜めて抜ける、テンポの良さが心地いい。

 

①顔と目を使った誇張表現(顔がぶつかるときは目に寄る・目がくの字になる)

漫符による動きの強調(フワとぶつかる・おばけで飛び跳ね・床で痛がる)

③光と影を利用した時間表現(コントラストの強さ・星を見る夜という舞台の強調)

 

スタプリ#1の演出のエッセンスが詰め込まれているアバンだったと思う。

 

余談だが、顔同士をぶつけるファーストコンタクト、瞳への寄りというと、やはりプリアラ#2におけるいちかとひまりの出会いを想起する人も多いだろう。

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こちらは、さらに瞳に相手(いちか)の顔を映しこんでいるというのも面白い。

顔同士がぶつかるという、ゼロ距離での衝撃的な出会いは、目をそらすことのできない出会いともいえよう。プリアラでは、本来出会うはずのなかった真逆な性格の2人の運命的な出会いを演出していた。

スタプリでは、この出会い(ひかるとフワ)がどのような意味を持つのか楽しみだ。

 

・顔と目を使った誇張表現(補)

顔の近さと目でいえば、次のようなカットも印象的だった。

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スタプリ#1(左)、プリアラ#2(右)

ひかる(左)の場合は宇宙、ひまり(右)の場合はスイーツと、それぞれが好きなものについて語るとき、手前にキャラクターを置くことで顔の近さを演出し、語りの熱を際立たせる。

キャラなめで顔の近さを演出⇒一方的に迫るキャラをコミカルに描く

スタプリ(左)の場合は、手前で引いているキャラクター(プルンス)の輪郭が太いのも面白い。輪郭の誇張は、プリアラ#2では次のような使われ方もしていた。

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蛇足だが(漫符についてはこれから触れるのだが)、目を使った表現としては「しいたけ目」の例をいくつか挙げておく。

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スタプリ#1
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プリアラ#2

 

漫符による動きの強調

既に引用したgifなどからわかるように、改めて言及するまでもなく、スタプリ#1やプリアラ#2には多くの漫符(汗や勢いを示すしずくや、ガヤガヤを意味する四角形など)がある。ただし、漫符に限っていえば、この二作に限定されることでもないだろう*1

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スタプリ#1(左)の配色(黄・橙)はプリアラでも繰り返し用いられていた(右・他…)

 

そのなかでも、スタプリ#1で特に面白く感じたのは次のカットだった。

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慌てて出ていこうとするひかるを、おじいさんが引き留める。呼び止められたひかるは、一度止まった後、少し前のめりになってから体を立て直す。少しわかりにくいかもしれないが、ひかるが体を最も低くしたタイミングで周りに汗のような白丸が描画されているのが見える。カギとなるフレームに漫符を配置することで、動きに緩急をつけ、すこし滑稽で勢いのある動きを作っている。

このように動きの緩急に漫符を利用することで、逆に次のようなカットが映えていたようにも思う(顔もぶつかっている)。

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(ふってくるフワに対して)

ひかる「ったー!」

   「待って!」

   「うわぁ…」

 「ったー!」で反射的にのけぞったひかるは、その後「待って!」「うわぁ…」と間抜けな声を出す。ここの(とくに最後の「うわぁ…」での)間抜けさは、先のようなコミカルに緩急を与えた動きのなかに配置することで、より一層際立っていた(完ぺきな変身バンクのあとなのに、初めての変身に驚く1話主人公のおかしさといえばいいだろうか)。

こうしたお茶目な子供らしい一面が印象深かったからだろうか(あるいは声のせいだろうか)、星奈ひかるはここ数年のプリキュア主人公の中では(精神的に)幼いように感じた。もちろん、それゆえに#1のクライマックスでの彼女の無邪気な行動力の発露には驚かされたともいえよう。これから、どのように物語をリードしてくれるだろうか、期待したい。

最後に、プリアラからは次のカットを紹介しておきたい(これは単に好きなだけです)。

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・光と影を利用した時間表現

これは昨年のハグプリ#18でも言及されることが多かったようだが*2、宮元宏彰の演出の特徴として、時計や影があげられることが多い。たとえば、プリアラ#2では次のカットが典型的だ。

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昼の明るさから一転、夕方になる

すこし過剰な演出かもしれないが、上でみてきたようなコミカルな表現のなかに挿入されると、強い意味を持って視聴者に迫ってくる。これは、時間をわすれてスイーツについて語ってしまったひまりが、ずいぶん時間が経っていたことに気付かされる瞬間である。彼女たちが遊べる時間の終わり(6時のチャイム)が響くなか、ひまりは自分の行いを後悔する。宇宙をテーマ・舞台とするスタプリでは「夜」という時間が、ひとつの鍵となるのではないだろうか。冒頭で引用したアバンでは、夜の光というモチーフが強いコントラストによって強調されていた。これも、これからの展開に期待が膨らむところである。

また、スタプリ#1での時間経過表現としては、主人公の昼寝が面白かった。こちらも、影と光を使った時間経過の表現の例としてわかりやすい。すこし寄りはするものの、俯瞰で主人公を見下ろし、雲のコントラストが強い影と、キャラクターから弱く伸びる影で昼寝による時間経過がのんびり感じられる。

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めちゃめちゃ寝てる

昼寝はさておき、これによって悪役の登場シーンが夕方になり、影が映える時間帯となる。

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手を広げてひとりがひとりを守る構図は、プリアラ#2にもあるが、スタプリ#1では主人公サイドが影に入っているというのが面白い。ハグプリ#16(渡邊巧大コンテ・作監)では、ルールーに縞状の影が落ちていたのが記憶に新しいが、今回の影にも意味はあるのだろうか(画としてかっこいいので、意味がなくても驚かないが何かあってもおかしくない…くらいだろうか)

#1では、フワちゃんの力も借りて宇宙人の女の子と話ができるようになったひかる、これからプリキュアや悪役の面々とどのようなコミュニケーションを広げていくのか楽しみだ。

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・さいごに

プリアラ#2に衝撃を受けて、再びプリキュアを追いかけるようになったというのもあり、宮元宏彰がシリーズディレクターになると聞いてスタートゥインクルプリキュアには強い期待を抱いていた。結果としては、その期待以上に宮元宏彰を感じる1話だったのではないかと思っている。

この記事では、なんとなくプリアラ#2を懐かしみながら、今後のスタプリに思いをはせてみた。世界観にしろ、物語の進行にしろ、まだわからないことばかりなので何とも浮ついた記述ばかりになってしまったが、なにしろ楽しみにしているというのだけは間違いない。近いうちに、きちんとプリアラ#2以外も参照しながら、記事のアップデートを図っていきたい。

*1:昨年、佐藤順一小黒祐一郎トークショー(@新文芸坐×アニメスタイル セレクションvol.100)で漫符について言及し『きんぎょ注意報!』あたりから、佐藤順一をはじめとして、スタイリッシュな使い方がされるようになったとの話があった。最近ではハグプリ#4、軽快でスポーティーなバスケの芝居のなかに織り込まれる漫符が非常に好きだった。https://twitter.com/AshitanoGin/status/967697088128667650

*2:たしか、ブログで明確に記録してくださっている方がいたように思うのだけど、思い出せない…ツイッターでは次のような議論をよく見かけたように覚えている。https://twitter.com/Karasuda1984/status/1003107358019481600

SSSS.GRIDMANと引きこもり

SSSS.GRIDMANは引きこもりの物語だと思っていた。所狭しと並ぶショーケースにごみの山、デュアルモニターに向かいながらフルスクラッチで怪獣をつくる新条アカネに何かしらの共感を覚えていたのだろうだからこそ、自分の世界を創り上げられるだけの想像力と技術を持っている新庄アカネが、記憶をなくしたままの空っぽで何も持たないグリッドマンに邪魔され続けるだけのアニメがなぜ面白いのかわからない、というのが最終話を観る前のSSSS.GRIDMANに対する率直な感想だった。

実際、#12に至るまでは、自分の思う世界を創り修正する新条アカネを否定するに足る十分な理由を、グリッドマンは示せていなかったように思う。

「これは夢だ。時計は返すよ。」

「ずっと夢ならいいって思わない?」

「夢だから目覚めるんだよ、みんな同じ。それは、新条さんも。」

「わたしはずっと夢を見ていたいんだ。」

「俺はそっちには行けない。グリッドマンが呼んでるから!」

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#9では、アカネが世界を創ったことを明示したうえで、創造物たるキャラクターがアカネの夢想する世界を否定する。 「私の友達として生まれてきた」というアカネの台詞を振り捨てるようにして、「同盟」を結んだ3人は「俺達には、俺達にしかできないことが、やるべきことがある!そうだろ、グリッドマン!」と叫ぶ響裕太のもとジャンクへと集まるのだ。

なぜ彼・彼女らがアカネの世界を否定したのかについて明示的な理由は語られないものの、グリッドマンの登場と活躍によって物語は一応の結論をみる。上の発言で言及される 「俺達にしかできない…やるべきこと」 は、「君の使命」の言い換えで #1の冒頭から繰り返され、空っぽなグリッドマンを突き動かしアカネを否定する一つのテーゼであるようだが、内実が明かされぬまま物語は進んでいくことになる。

 

では、アカネは一体何によって否定されていたのだろうか。

ひとつの仮説は「現実に帰れ」というテーゼによってである。こう考えると、グリッドマンの「使命」「やるべきこと」は、虚構の世界に引きこもったアカネを現実につき返すこととなるだろう。確かに、これは#9の「夢だから目覚めるんだよ。それは新条さんも。」という裕太の台詞と親和性が高く、アカネが現実へ帰っていくという物語の結論とも整合的である。

しかし、この解釈は、#9をうけて#11の最後、顔を真正面からとらえたカメラで六花がアカネに伝えた「私はアカネの友達。それ以外に生まれてきた意味なんていらないよ。」という台詞の重さをあまりに軽視しすぎているといえるだろう。六花は「それ以外に生まれてきた意味なんてない」ではなく「いらない」と伝えたのだ。それも#9で「ごめん」と言ってアカネの夢想する世界を拒否した六花がである。アカネが自分の友達として生み出したはずのキャラクターが、その役割を拒否する可能性を明示したうえで、改めて「自分の意思で」彼女の友達であることを選んだ。少なくとも、アカネにはもうどうしようもなく操作不能になった世界において「友達」だとキャラクターたる六花が伝えたからこそ、物語のひとつのクライマックスとして成立していた。この時点において、アカネにとって六花が何を考えて何を伝えてくるのかわからない、ままならない現実の相手たる「友達」に変化したのだといえるのではないだろうか。物語の最深部ともいうべきこのカットには、創作者の望むままに操作可能な虚構世界/個人の意思ではままならない現実世界という二項対立を徹底的に拒否するモーメントがあった。

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ここには、虚構であっても真摯に向き合い続ければ、自分の欲するがままのキャラクター像の向こう側に、自分を拒否しうるだけの可能性を持った、ままならない現実の「友達」が現れうるという視聴者へのメッセージがあるように思う。だからこそ、#12における次の六花とアカネの会話は重い。

「だから私たちを頼ってほしい、信じてほしい。そのための関係だから」

「私との関係…みんな、わたしの、わたしの…友達…」

虚構のキャラクターであろうとも現実のようにままならない関係を結ぶことができ、だからこそ「友達」になれるし、キャリバーの言う通り「みな一人ではない、新条アカネも」なのだ。これは「現実に帰れ」というテーゼとは真逆のものである。

 

しかし、現実/虚構の二項対立を拒否するところに物語のメッセージがあったとするならば、なぜアカネは現実へと戻らなければならなかったのだろうか。何がアカネを自らの世界から現実へと押し返したのだろうか。ここで、自分の創った世界でいったい何がアカネを拒否するものとなっていたのかという最初の問いを一歩進める必要がある。

実は、アカネが現実に帰る理由については#12に本人による直接の言及がある。先に引用した六花との対話に続き、アカネは次のように発言する。

「ここは私が創った世界だから、この世界に私がいちゃいけないんだ。自分の意思で帰らなきゃいけないんだ。私の場所に。」

この発言は、現実と虚構(私が創った世界)を明確に区別したうえで、現実を「私の場所」として特権化している発言だといえよう。一見すると、これは先に提示した現実/虚構の二項対立の拒否という物語のメッセージと矛盾しているようにみえる。SSSS.GRIDMANはやはり「現実に帰れ」を踏襲しているではないかと。だが、矛盾するのは上の発言が物語のメッセージを直接に表象するものであると読み解いた場合のみではないだろうか。つまり、この発言は、現実と虚構が同じ地平にあるということを理解したうえで、それでもなお現実を「私の場所」として特権化するというアカネの選択を示したものと読むべきではないかと思うのだ。

この解釈の根拠は、なによりアカネが人間と社会の存在する世界を創ったことにあると考えている。現実から引きこもり自分自身の世界を神として創るとなったとき、意識的にせよ無意識にせよ、アカネはどんなフィクショナルな世界よりも、偽物ながらも本物らしい、現実に即した世界を選んだ。あの世界には、面倒な学校の教師も、youtuberも、それに憧れるような騒がしい学生すらいる。そんな世界をアカネが創ったのだ。もちろん、視聴者の現実とは全く異なる世界にアカネが住んでおり、その世界での完全なフィクションをアカネが創ったという可能性も指摘できただろう。しかし、最終話の実写EDによってその可能性も否定された。

現実から逃れた先で、現実を作る。現実を志向しながらも、虚構物として修正しようとする。このどうしようもない内的な矛盾が、彼女にはあった。

ならば結局、新条アカネを否定していたのは新条アカネ自身といえるのではないか。

「神様にもわからないことがあるのかよ」

「あるよ。じゃあ内海君は、自分がいままでに捨てたものまで全部把握しているの?そういう人がいらなくなったものが集まるお店でしょ?ここ。」

 すべてが彼女から生まれた世界で、彼女にとってままならない現実が現れる。これは何より、新条アカネが捨てたと思っていた感情が思わぬ形で彼女に牙をむく瞬間を象徴的に表している。彼女にとっての現実世界で何があったのかは最後まで明示されないが、そこであった何かがアカネの心のしこりのようになっていたというのは想像に難くない。もし現実なんてどうでもいいと、「ずっと夢ならいい」と心の底から思っていたならば、彼女の世界が彼女を追い出そうとすることなんてなかっただろう。どこかで現実を志向していたからこそ、彼女の創った世界はその世界にいるアカネを否定するのである。

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 印象深かったのは、#12においてアカネを怪獣から引っ張り出すのがアンチだったことだ。他のどのキャラクターよりも、アカネの内から出てきたことに自覚的なアンチだからこそ、手元をすり抜けていくようなアカネの軽やかさの裏に隠された何層もの感情を理解していた(#10)。

「これは新条アカネの心そのものだ。俺はあいつの心が読める。…俺には見えているぞ、新条アカネ!」

だからこそ、#12ではアンチがアカネの手を引っ張り上げる。それは、アンチが新条アカネの隠れた自己嫌悪を他のどのキャラクターより理解していたからだろう。ここにきて、アンチは単にアンチーグリッドマンというだけでなく、この世界のアカネを否定するアカネの感情から生まれた、アンチーアカネの意味も含んでいたのではないかと考えるのは邪推だろうか。

「怪獣はね、人に都合を合わせたりしないよ。いるだけで人の日常を奪ってくれる。それが怪獣。…やっぱり君は失敗作だよ。」

 SSSS.GRIDMANの世界において背景となった怪獣は、あの世界が作り物であることの象徴でもあった。「人の都合」を一切顧慮しない怪獣のありかたは、まさに現実のままならなさを打ち砕く虚構の暴力である。だからこそ、現実世界なるものへ鬱屈した感情を持っている人間は怪獣に惹かれるのかもしれない。だが、怪獣たるアンチは、アカネの感情を汲み、その手を引き上げた。虚構の象徴が、ままならない現実の相手となるという構図がここにもある。引き上げられるアカネの表情は、怪獣たるアンチのうえで雨に打たれながら笑った#3の時と比較しても、どこか憑き物がとれたかのような晴れ晴れしいにみえる。アカネの期待するような形とは正反対の存在たる「友達」となったアンチだからこそ、アカネのこの表情に出会えたのではないかと思わせる#12のこのカットには、これまで否定され続けてきた苛立ちが解放されるようなカタルシスがあった。

「なんで君なんかに。ほんとに君は失敗作だね。」

「あぁ。俺はお前が作った失敗作だ。」

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また、この観点からグリッドマンの「使命」についても整理できよう。否定を基調とする物語は、救済によって終わる。「アカネ君の心を治したというのか」という#12のアレクシスの台詞は、ともすると虚構世界へ引きこもることそのものを病気として扱った発言のようにもみえるが、新条アカネが彼女にしかわからない形で抱えていた矛盾と向き合ったということを指していると考えるべきであるように思う。創った世界も一つの世界であり現実世界の代替とはならないことを認め、そのうえで「友達」との対話を通して、自分が現実世界にある種の執着を持っていることを、心のしこりはそこでしか解決できないものであることを、前向きに受け取ることができた。この形でのアカネの救済こそ、フィクサービームを打つグリッドマンの「使命」だったのではないかと最終話を観たいまとなっては思う。

 

虚構の中で現実を志向するという状況のもとで隠れていた彼女の自己嫌悪・自己否定と、「友達」との対話によってアカネは向き合うことができた。だからこそ、作られた世界が現実と同じようにままならないものであると理解したうえで、現実世界へ帰るという選択肢を取ったのである。現実を特権化するテーゼが彼女を現実へ押し返したのではない。現実と虚構が同じ地平に並んだがゆえに、「友達」に出会い、彼女は現実へ帰ることを選択できたのだ。

「私はここで取り返しのつかないことばかりをした」

「知ってる」

「私は卑怯者なんだ」

「知ってる」

「私は臆病でずるくて弱虫で」

「知ってる。アカネのことなら私は知ってるから。」*1

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「現実へ帰れ」というテーゼに駆り立てられる必要はない。しかし、もしあなたが少しでも現実を志向しているのなら、いつか現実に帰ることになるだろうし、きっと「友達」が助けてくれる。SSSS.GRIDMANの提示するテーゼはどこまでも優しく、そして現実を志向しないあなたに残酷だ。とどのつまり、あなたはアカネに否定されてしまったのだろうか。最初の期待を裏切り、彼女は厭世的な引きこもりではなく、現実を志向する人間であると訴えかけてきた。いや、引きこもりは外を志向しているがゆえに引きこもるのだろうか。「退屈から救いに来た」とグリッドマンが窓ガラスを打ち破ってくれるのを待っているかのように。

どちらにせよ、もしあなたが本当にアカネに否定されているのならば、それは六花に出会えたアカネと同様、幸福なのかもしれない。世の引きこもりに救済のあらんことを願うばかりである。

*1: 蛇足かもしれないが、アカネが「私の場所」と呼ぶ世界について全く知らない六花がアカネへと告げる、「知ってる」という言葉の重みは、このカットを本作の中でも特別なものにしている。これについては機会があれば改めて書きたい

作ってきたVRCワールドまとめとこれからやりたいことなど

昨日TEGEさんのワールド見に行き、ちゃんと「自分のワールド」みたいなのをいつか作りたいなと思った。

その前に、いままで軽率に作ってきたワールドを一覧にしておこうと思う。

いわゆる、見て!って気持ちです。あと、何を考えていたのか残しときたいなと。

だいたいVR建築コンテスト(後記:審査員賞(番匠カンナ賞)に選んでいただきました!)に参加するまでのunityとシェーダの勉強具合がわかる。

 

とりあえずワールドを作ってみようと思ったけど、オブジェクトを並べるくらいしかできなかったので、思い付きで多柱室を作ってみた。柱が必要ないVRの空間だからこそ、柱だけのワールドを作ってみたいなと考えていたのだと思う。どこにも立たず何も支えない柱というのをテーマにしてたみたい。

たぶんカルナック神殿だったと思うんだけど、はじめて多柱室について読んだとき、神室へと至る過程をデザインする思想にずいぶん惹かれた気がする。アトリウムから多柱室へと、明暗を強調する変化が、徐々にスケールを落としつつ繰り返され神室へと至る。生死を直接体感するかのような空間を想像して楽しんでいた。この点、このワールドでは出来なかったことのほうが多くて、いつかやってみたい(ジュゼッペ・テラーニのダンテウムとか?)

 

VR空間でけん玉を練習すれば、現実でもけん玉が使えるようになるらしい。なら、ダンスレッスンならどうなのだろうと思い作ってみたもの。SDKコンポーネントを使うことを覚え始めた。それに、自分の狭い部屋でダンスなんてできるわけないと思っていたけれど、案外物理的には何とかなるなという気付きもあった。(まぁ前に壁が迫ってる状況では踊ろうなんて思わないというだけ)

 

 

これがJKZombieのはじまり。シェーダを触り始めたときのもの。なんとなくハロウィンの空気を感じるなかで、VRなのに血とか内臓でコスプレするのもなぁと思いながら作った気がします。

情報の読み取りを全く拒否されているのに目が離せない、みたなイメージを女子高生に重ねたら面白いかなみたいな安直な考えだった気がする。とどのつまり、目を離せないのに観測者には絶対に理解できないもの(観測者を拒否するもの)に惹かれがちなんだと思う。*1

 

 

実はここで催眠音声を流してみたら、思ったよりR18だったので反省したという事案です。

 

 

たぶん、このちょっと後ぐらいにVR建築コンテストの開催を知って、いろいろ勉強し始めたんだと思う。結局、できたことは少なかったけど、やりたいことに向かってできることを増やす過程と、できることを列挙してやりたいことを見つける過程の組み合わせを、うまい配分で進められた気がする。現段階でやれることはやったかな。できれば、変化の過程のひとつひとつにもっと拘りたかったし、VRにおける「かたち」というテーマについても深く考えたかった(ちょうど今日『時のかたち』を読んだ)。

俺の作ったワールドではないんだけど、VR建築コンテストの運営の方が作ってくださった作品展示ワールドがめちゃめちゃいいので、ぜひ見に行ってください。ここに並べてもらえただけで、参加した意味があったなと思いました。

 

 

 おまけ1

Rick and Mortyが好きで作ったファンワールドみたいなもの?この話は、おじいちゃんRickが、自分の体を水槽に入れたまま、脳を高校生の体TinyRickに移したら、死の恐怖が湧いてきてもとに戻らなくなったという話で、TinyRickのなかのおじいちゃんRick部分が助けを求めて「Let me out! Let me out! This is not a dance!」と叫ぶというシーンが上の動画です。めっちゃVRCじゃん…って思いながら踊ってた(楽しかった。)

I'm dying in a vat in the garage...

 

おまけ2

建築コンテストでやったことをアバターに適応してようとしてます。unityでいろんなアニメーション作ってみたい。

 

 

【追記分:2/27】

・1月はVケットブース作成をした(VRoid学園)

VR建築コンテストでの入賞を知って、ふぁんとむさんが声をかけてくれた。6人での合同出展のブース作成を担当した。

 

 

・ブース作成でblenderを触ったので、バレンタインにはアナルを模したチョコレートを

 

・VRoidでつくったものなども

*1:百合

シェーダを触りはじめた

unityを初めて触って2カ月だし、プログラミングなんてやったことなかったけど、シェーダを触ってみた記録

https://ytomi4.tumblr.com/post/179176526367/ちょっとシェーダを触ってみたがやっぱり難しい-shadertoycom
https://ytomi4.tumblr.com/post/179234343646/prpr
https://ytomi4.tumblr.com/post/179246808641/女子高生の肌をノイズにして歩かせた
https://ytomi4.tumblr.com/post/179520744814/シェーダの練習過程でできた少しtrippyなワールド
https://ytomi4.tumblr.com/post/179552753785/まがりなりにもglslで書かれたシェーダをやっとunityに持ち込めたシェーダを触り始めた時にや

ヤマノススメとweb系 感情が感情の顔をして歩く

ヤマノススメ サードシーズン』を観てこの何とも言えない感じを文章にしようと思った際に、作画に触れないわけにはいかないんじゃないかという気になり、蛮勇をふるって書いた記事の下書きにあたるものです(内容に違いがあるわけではなくアウトライナーで書いたものをそのまま貼り付けたという意味の下書きです)。某誌に本来のレビュー企画の+αとして投稿したものなんですが、どうも上手く書ききれてないという感じなので、さらにブログで寝かせる(できればコメントをもらう)ことにしました。たぶん大丈夫だけど、怒られたら消します。

 

  •  ヤマノススメを観ているとき
    • ヤマノススメ サードシーズン』が2018年のアニメ演出の転換点を代表するアニメであることは間違いない。今までのどのアニメとも違い、感情が感情の顔をして歩いていた。ヤマノススメを観ていて、いったい自分が何に向かっているのかわからなくなったことはないだろうか。この奇妙な質感にこそ、ヤマノススメを他のあらゆるアニメの連なりから区分する理由がある。
  • web系作画
    • たとえば、『ヤマノススメ』を2000年以降のweb系作画が「動きの感じ」という関心をキャラクターの「顔」へ適応させることに成功したアニメだと表現できるかもしれない。
    • web系とは、第一義的には、web上で注目を集め、制作に直接声をかけられるなどして原画としてデビューした、沓名健一、りょーちも山下清悟に代表される2000年以降のアニメーターを指す言葉であるり、下積みを経験していないからこその、日本のテレビアニメの作画が培ってきたテンプレートを外れた、生の動きが先行する作画という特徴が指摘できる。
    • いうなればweb系アニメーター達は、テンプレートとなった動きがキャラクターの行動・動機を示すための記号となることを否定し、静止画を固定化された時間(フル3コマ)へ流し込むアニメーションに拘ることで、動きの生の感じを表現することを何より優先してきた(web系とフル3コマによるタイムライン作画に関してはブログ「C is for Comic」のエントリー「ざわめきを作画する」に詳しい)。
  • web系作画への言及(ちな)
    • こうしたweb系作画の文脈に、『ヤマノススメサードシーズン』を代表するアニメーターちな(#2,#10の絵コンテ・演出、#2一人原画)自身が言及している。
    • 「(web系アニメーターのスタイルを踏まえた土上いつきは)テンプレートの技法をそのまま使って見た目さえ整えばいいという考えで書くのではなく、その表現が本当に熱く感じるか、煙たく感じるかという「感じ方」を優先した意識で書いていると思いますし、同様に僕がキャラクターの芝居を書く時もそうしたアニメーション感を大事にしています。」(MdN vol.294)
  • web系作画とヤマノススメ
    • では実際に、ヤマノススメでは、web系の関心がどのように継承されていたと指摘できるだろうか。
    • そもそも、web系はキャラクターと離れたところで独自のアニメを打ち立てたという点に特徴があったはずである。キャラクター中心の(それに派手なアクションもない)ヤマノススメにおいて、どのように「そうしたアニメーション感を大事に」したのだろうか。
    • 結論から言えば、表情作画における感情表現の新規性という形でその矛盾が昇華したというのがここでの仮説である。それは現状の「日常アニメ」への抵抗としても読めるかもしれない。
    • 作画崩壊」という言葉が独り歩きする風潮のなか、キャラ表を作りこみ、作監総作監による細かい修正で、どの位置で一時停止したとしてもキャラクターの顔が崩れていない、アウトラインが固定された隙のないアニメが多くなってきた。こうしたアニメにおいて、動きとは固定化されたキャラクターの顔に記号的に与えられるテンプレートとなる。それゆえに、キャラクターの感情は解釈され言語化されたうえで表情として固定化され、それを視聴者が再び感情として読み取るという過程をたどる。
    • これに対して、ヤマノススメではキャラクターの顔が比較的自由に変形する。一時停止をすると決して整っているとはいえない顔が描かれているシーンが多いことに気付くだろう(例えば松本憲生の一人原画回である#3などが特徴的かもしれない)。だが、それは決して動画としてみている限りでは違和感を覚えるものではない。
    • 先のweb系の議論と並べるとわかりやすい。つまり、動的な表情がキャラクターの顔に先立って作画されているのだ。web系が、固定された体にテンプレートの動きを当てはめるのを拒否したというプロセスが、そのまま固定されたキャラクターの顔にテンプレートの表情を当てはめるのを拒否するという形で踏襲されている。
    • だからこそ、感情が表情テンプレートへエンコードされ、視聴者がそれを経験に基づきデコードするという過程を必要としない。ちなの言葉を借りるならば「生の」表情=感情がそこに立ち現れる。
  • #10演出の革新性(ひなた)
    • 具体的な例をみよう。サードシーズンのなかで最も印象深かったのはやはり#10だろう。あおいがクラスメイトと池袋へ遊びに行くなか、物語の中心ははひとりで飯能を歩くひなたである。「いつも一緒にいる必要はない」。そう思いながらも、いままで引っ込み思案で自分がいなければクラスの友達とも遊ぶことができなかったあおいが、ひとりで遊びに行っているという事実に戸惑いを隠せず、何より戸惑っているという事実そのものに言いようのない感情を抱えている。
    • 重要なのは、この感情をひなたが言語化できていないということである。こうした感情を、たとえば楽しそうなあおいをメインでとらえながら、孤独を強調するようにひなたの様子をワンカットだけ挿入するという演出であれば、今までのアニメでも十分あり得ただろう。しかし、#10のカメラは曖昧な感情を抱えながら歩くひなたを追い続ける。それは、言語化できないがゆえにテンプレートでは捉えきれない、ひなたのざわめく表情・感情を作画で描き切ることを前提とした演出だった。あおいからのメッセージを受け取ったとき、楽しそうな写真を見たとき、木の写真を撮るとき、楓とゆうかの関係性を目前にしたとき、駅であおい達の姿を目撃したとき…ひなたの顔は変化し続ける。この顔の変化は、ともすればキャラクターの同一性を失う契機となりかねない。しかし、主役はひなたというラベルに固定化されたキャラクターではないのだ。動的なひなたの感情そのものを画面の主役にしたという点に#10の面白さがあった。
  • 「秘密だよ」
    • テンプレートの組み合わせでは表現できない、非言語的な生の表情・感情というモチーフは、サードシーズ最後の物語とも深くリンクする。「私ひなたのこと全然知らないなと思って…」。このあおいの台詞は、1期1話で視聴者が受け取った闊達なひなたと内気なあおいという構図が崩壊した3期最終話における台詞である。もちろん、ここまでに二人の関係は入り組んできたのだが、ここに至ってどんなテンプレートも適応不可能であることにあおい自身が言及したシーンである。
    • ヤマノススメは定型化されたキャラクターの提示から始まりながらも、キャラクターに先立って生の感情を作画する、感情が感情のまま歩くアニメだった。そして、それが生の感情であるがゆえに、われわれ視聴者はその言語的な解釈を徹底的に拒否されるのである。最終話における、彼女たちの秘められた会話はその象徴といえよう。