SSSS.GRIDMANと引きこもり

SSSS.GRIDMANは引きこもりの物語だと思っていた。所狭しと並ぶショーケースにごみの山、デュアルモニターに向かいながらフルスクラッチで怪獣をつくる新条アカネに何かしらの共感を覚えていたのだろうだからこそ、自分の世界を創り上げられるだけの想像力と技術を持っている新庄アカネが、記憶をなくしたままの空っぽで何も持たないグリッドマンに邪魔され続けるだけのアニメがなぜ面白いのかわからない、というのが最終話を観る前のSSSS.GRIDMANに対する率直な感想だった。

実際、#12に至るまでは、自分の思う世界を創り修正する新条アカネを否定するに足る十分な理由を、グリッドマンは示せていなかったように思う。

「これは夢だ。時計は返すよ。」

「ずっと夢ならいいって思わない?」

「夢だから目覚めるんだよ、みんな同じ。それは、新条さんも。」

「わたしはずっと夢を見ていたいんだ。」

「俺はそっちには行けない。グリッドマンが呼んでるから!」

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#9では、アカネが世界を創ったことを明示したうえで、創造物たるキャラクターがアカネの夢想する世界を否定する。 「私の友達として生まれてきた」というアカネの台詞を振り捨てるようにして、「同盟」を結んだ3人は「俺達には、俺達にしかできないことが、やるべきことがある!そうだろ、グリッドマン!」と叫ぶ響裕太のもとジャンクへと集まるのだ。

なぜ彼・彼女らがアカネの世界を否定したのかについて明示的な理由は語られないものの、グリッドマンの登場と活躍によって物語は一応の結論をみる。上の発言で言及される 「俺達にしかできない…やるべきこと」 は、「君の使命」の言い換えで #1の冒頭から繰り返され、空っぽなグリッドマンを突き動かしアカネを否定する一つのテーゼであるようだが、内実が明かされぬまま物語は進んでいくことになる。

 

では、アカネは一体何によって否定されていたのだろうか。

ひとつの仮説は「現実に帰れ」というテーゼによってである。こう考えると、グリッドマンの「使命」「やるべきこと」は、虚構の世界に引きこもったアカネを現実につき返すこととなるだろう。確かに、これは#9の「夢だから目覚めるんだよ。それは新条さんも。」という裕太の台詞と親和性が高く、アカネが現実へ帰っていくという物語の結論とも整合的である。

しかし、この解釈は、#9をうけて#11の最後、顔を真正面からとらえたカメラで六花がアカネに伝えた「私はアカネの友達。それ以外に生まれてきた意味なんていらないよ。」という台詞の重さをあまりに軽視しすぎているといえるだろう。六花は「それ以外に生まれてきた意味なんてない」ではなく「いらない」と伝えたのだ。それも#9で「ごめん」と言ってアカネの夢想する世界を拒否した六花がである。アカネが自分の友達として生み出したはずのキャラクターが、その役割を拒否する可能性を明示したうえで、改めて「自分の意思で」彼女の友達であることを選んだ。少なくとも、アカネにはもうどうしようもなく操作不能になった世界において「友達」だとキャラクターたる六花が伝えたからこそ、物語のひとつのクライマックスとして成立していた。この時点において、アカネにとって六花が何を考えて何を伝えてくるのかわからない、ままならない現実の相手たる「友達」に変化したのだといえるのではないだろうか。物語の最深部ともいうべきこのカットには、創作者の望むままに操作可能な虚構世界/個人の意思ではままならない現実世界という二項対立を徹底的に拒否するモーメントがあった。

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ここには、虚構であっても真摯に向き合い続ければ、自分の欲するがままのキャラクター像の向こう側に、自分を拒否しうるだけの可能性を持った、ままならない現実の「友達」が現れうるという視聴者へのメッセージがあるように思う。だからこそ、#12における次の六花とアカネの会話は重い。

「だから私たちを頼ってほしい、信じてほしい。そのための関係だから」

「私との関係…みんな、わたしの、わたしの…友達…」

虚構のキャラクターであろうとも現実のようにままならない関係を結ぶことができ、だからこそ「友達」になれるし、キャリバーの言う通り「みな一人ではない、新条アカネも」なのだ。これは「現実に帰れ」というテーゼとは真逆のものである。

 

しかし、現実/虚構の二項対立を拒否するところに物語のメッセージがあったとするならば、なぜアカネは現実へと戻らなければならなかったのだろうか。何がアカネを自らの世界から現実へと押し返したのだろうか。ここで、自分の創った世界でいったい何がアカネを拒否するものとなっていたのかという最初の問いを一歩進める必要がある。

実は、アカネが現実に帰る理由については#12に本人による直接の言及がある。先に引用した六花との対話に続き、アカネは次のように発言する。

「ここは私が創った世界だから、この世界に私がいちゃいけないんだ。自分の意思で帰らなきゃいけないんだ。私の場所に。」

この発言は、現実と虚構(私が創った世界)を明確に区別したうえで、現実を「私の場所」として特権化している発言だといえよう。一見すると、これは先に提示した現実/虚構の二項対立の拒否という物語のメッセージと矛盾しているようにみえる。SSSS.GRIDMANはやはり「現実に帰れ」を踏襲しているではないかと。だが、矛盾するのは上の発言が物語のメッセージを直接に表象するものであると読み解いた場合のみではないだろうか。つまり、この発言は、現実と虚構が同じ地平にあるということを理解したうえで、それでもなお現実を「私の場所」として特権化するというアカネの選択を示したものと読むべきではないかと思うのだ。

この解釈の根拠は、なによりアカネが人間と社会の存在する世界を創ったことにあると考えている。現実から引きこもり自分自身の世界を神として創るとなったとき、意識的にせよ無意識にせよ、アカネはどんなフィクショナルな世界よりも、偽物ながらも本物らしい、現実に即した世界を選んだ。あの世界には、面倒な学校の教師も、youtuberも、それに憧れるような騒がしい学生すらいる。そんな世界をアカネが創ったのだ。もちろん、視聴者の現実とは全く異なる世界にアカネが住んでおり、その世界での完全なフィクションをアカネが創ったという可能性も指摘できただろう。しかし、最終話の実写EDによってその可能性も否定された。

現実から逃れた先で、現実を作る。現実を志向しながらも、虚構物として修正しようとする。このどうしようもない内的な矛盾が、彼女にはあった。

ならば結局、新条アカネを否定していたのは新条アカネ自身といえるのではないか。

「神様にもわからないことがあるのかよ」

「あるよ。じゃあ内海君は、自分がいままでに捨てたものまで全部把握しているの?そういう人がいらなくなったものが集まるお店でしょ?ここ。」

 すべてが彼女から生まれた世界で、彼女にとってままならない現実が現れる。これは何より、新条アカネが捨てたと思っていた感情が思わぬ形で彼女に牙をむく瞬間を象徴的に表している。彼女にとっての現実世界で何があったのかは最後まで明示されないが、そこであった何かがアカネの心のしこりのようになっていたというのは想像に難くない。もし現実なんてどうでもいいと、「ずっと夢ならいい」と心の底から思っていたならば、彼女の世界が彼女を追い出そうとすることなんてなかっただろう。どこかで現実を志向していたからこそ、彼女の創った世界はその世界にいるアカネを否定するのである。

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 印象深かったのは、#12においてアカネを怪獣から引っ張り出すのがアンチだったことだ。他のどのキャラクターよりも、アカネの内から出てきたことに自覚的なアンチだからこそ、手元をすり抜けていくようなアカネの軽やかさの裏に隠された何層もの感情を理解していた(#10)。

「これは新条アカネの心そのものだ。俺はあいつの心が読める。…俺には見えているぞ、新条アカネ!」

だからこそ、#12ではアンチがアカネの手を引っ張り上げる。それは、アンチが新条アカネの隠れた自己嫌悪を他のどのキャラクターより理解していたからだろう。ここにきて、アンチは単にアンチーグリッドマンというだけでなく、この世界のアカネを否定するアカネの感情から生まれた、アンチーアカネの意味も含んでいたのではないかと考えるのは邪推だろうか。

「怪獣はね、人に都合を合わせたりしないよ。いるだけで人の日常を奪ってくれる。それが怪獣。…やっぱり君は失敗作だよ。」

 SSSS.GRIDMANの世界において背景となった怪獣は、あの世界が作り物であることの象徴でもあった。「人の都合」を一切顧慮しない怪獣のありかたは、まさに現実のままならなさを打ち砕く虚構の暴力である。だからこそ、現実世界なるものへ鬱屈した感情を持っている人間は怪獣に惹かれるのかもしれない。だが、怪獣たるアンチは、アカネの感情を汲み、その手を引き上げた。虚構の象徴が、ままならない現実の相手となるという構図がここにもある。引き上げられるアカネの表情は、怪獣たるアンチのうえで雨に打たれながら笑った#3の時と比較しても、どこか憑き物がとれたかのような晴れ晴れしいにみえる。アカネの期待するような形とは正反対の存在たる「友達」となったアンチだからこそ、アカネのこの表情に出会えたのではないかと思わせる#12のこのカットには、これまで否定され続けてきた苛立ちが解放されるようなカタルシスがあった。

「なんで君なんかに。ほんとに君は失敗作だね。」

「あぁ。俺はお前が作った失敗作だ。」

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また、この観点からグリッドマンの「使命」についても整理できよう。否定を基調とする物語は、救済によって終わる。「アカネ君の心を治したというのか」という#12のアレクシスの台詞は、ともすると虚構世界へ引きこもることそのものを病気として扱った発言のようにもみえるが、新条アカネが彼女にしかわからない形で抱えていた矛盾と向き合ったということを指していると考えるべきであるように思う。創った世界も一つの世界であり現実世界の代替とはならないことを認め、そのうえで「友達」との対話を通して、自分が現実世界にある種の執着を持っていることを、心のしこりはそこでしか解決できないものであることを、前向きに受け取ることができた。この形でのアカネの救済こそ、フィクサービームを打つグリッドマンの「使命」だったのではないかと最終話を観たいまとなっては思う。

 

虚構の中で現実を志向するという状況のもとで隠れていた彼女の自己嫌悪・自己否定と、「友達」との対話によってアカネは向き合うことができた。だからこそ、作られた世界が現実と同じようにままならないものであると理解したうえで、現実世界へ帰るという選択肢を取ったのである。現実を特権化するテーゼが彼女を現実へ押し返したのではない。現実と虚構が同じ地平に並んだがゆえに、「友達」に出会い、彼女は現実へ帰ることを選択できたのだ。

「私はここで取り返しのつかないことばかりをした」

「知ってる」

「私は卑怯者なんだ」

「知ってる」

「私は臆病でずるくて弱虫で」

「知ってる。アカネのことなら私は知ってるから。」*1

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「現実へ帰れ」というテーゼに駆り立てられる必要はない。しかし、もしあなたが少しでも現実を志向しているのなら、いつか現実に帰ることになるだろうし、きっと「友達」が助けてくれる。SSSS.GRIDMANの提示するテーゼはどこまでも優しく、そして現実を志向しないあなたに残酷だ。とどのつまり、あなたはアカネに否定されてしまったのだろうか。最初の期待を裏切り、彼女は厭世的な引きこもりではなく、現実を志向する人間であると訴えかけてきた。いや、引きこもりは外を志向しているがゆえに引きこもるのだろうか。「退屈から救いに来た」とグリッドマンが窓ガラスを打ち破ってくれるのを待っているかのように。

どちらにせよ、もしあなたが本当にアカネに否定されているのならば、それは六花に出会えたアカネと同様、幸福なのかもしれない。世の引きこもりに救済のあらんことを願うばかりである。

*1: 蛇足かもしれないが、アカネが「私の場所」と呼ぶ世界について全く知らない六花がアカネへと告げる、「知ってる」という言葉の重みは、このカットを本作の中でも特別なものにしている。これについては機会があれば改めて書きたい